風になる母

『風になる母 百首』 秋人

この年の題詠は、母の死と風をテーマに百首をつくってみた。題詠は与えられたお題の順に投稿していくため、さすがに時の流れに沿った形でつくることができなかったので、再編してみた。時の流れは早く、母の死後、数年の風が吹き抜け、僕ひとりだけが取り残されている。秋人は短歌の時のためにつけた雅号だ。

追い風の坂

リボン付け袴の母が風に立つ
子を産む前の古きアルバム

栄え失せ焼夷の風を逃げまどい
平和に飢えた母の青春

風洗う焼野原立ち負けたのは
自分じゃないと母は生き抜く

侵略の焼土の風に涙した
母に病魔がまた攻略を

旧道を押す車椅子母を乗せ
これが最後の追い風の坂

風の中母と最後のドライブは
救急車で向かう病院

病舎には快適な風ながれても
横たう母に死の臭いして

付きまとう死神の風臭気増し
母微笑めどまた苦しげに

佳麗なる母の面影いまはなく
風にかわいた涙やつれて

裕然と死を待つ母を茫然と
ただ眺めては風も忘れて

風圧の部屋

細々とやつれて荒れた手で招く
病の母に風が応える

病床の風が付けたかデスマーク
窶れた母の腕にポツリと

風薫る母病床の短期間
あれやこれやと思い出話

薫風を味わいながら缶ビール
母が死に行く病室なのに

死に至るスローな時を繰り返す
母と二人で風圧の部屋

病床の母の想いを読み取れず
カップ酒干す風下の闇

病床のベタつく白髪清潔を
好んだ母にせめて清風

達筆な母の最後のメモ帳は
風に乱れたようで読めない

治療法途絶えて母は死出を待つ
風に微笑む最後の寝顔

僕はただ守衛のように仮眠する
死に行く母と無風の闇で

死神の風

風流に書き込められた一行に
苦しいとあり断末魔の母

呼びかけど母は応えず微笑まず
昏睡のまま黄昏の風

死ぬ母の風に乱れた心電図
旅が始まるカウントダウン

山場越え嵐いままた静まりて
まだ生きている母に寄り添う

わざわざとニヤリ顔出しまた消える
母の枕辺死神の風

母の死期僕を宿した腹だけが
風船みたく膨らんでいた

ソプラノがバスへと変わる呻き声
熱風は凍て母は無言に

「もういいよ行きな母さん」のろのろと
風車が止まる死の前夜祭

手を清め消毒液を風で拭く
死にゆく母に懺悔できずに

窓の風温度ばかりを高めゆく
母の生命は冷えゆくままに

風立つ朝に

時を止め母を殺して逸脱の
風はおさまりまた熱帯夜

子供らが眠りつくまで団扇風
おくりつづけた母があの世に

四国さえ遠いからと行かぬ母
黄泉へ旅立つ風立つ朝に

風雲よ漸く母は徴兵で
惨殺された伯父のもとへと

春風の尼僧のように微笑みて
息子を許す母の死顔

唾棄すべき男を母は息子ゆえ
風の香りで守って死んだ

母看取る僕の本音は涙ほど
哀しくなくてただ風穴が

いつか来る死とは思えど急だった
そんな気がする風になる母

せっかくの介護保険も使わずに
風雪に耐え生きて死ぬ母

最後まで介護保険の申請を
拒み死ぬ母まるで風刺画

知らぬ風情で

死ぬ母は良妻賢母だったのか
風に聞いても笑われただけ

臨終の母を優しく包む風
騙されたのか騙したがわか

葬儀社に宗派伝えて慌ただし
母臨終の朝風乱れ

通夜一人ふとよみがえる物語
母の匂いと団扇の風と

風誘う珠数玉ひろい手づくりの
母の思い出今日は葬式

母望む錦飾れず風なびく
喪服姿で母の遺影を

「ママはどこ?風が寒い!」と探す父
母の葬儀の会場なのに

夫婦とはなんなのだろう母の死を
認知の父は知らぬ風情で

老いてなお風の水面の夫婦鳥
水中の苦労子は知らぬまま

黎明にらくだのシャツで行く父を
風と見送るアカギレの母

最後の風を

亜鉛華に固まる母の死顔は
遺族の風になびかぬままに

また少し小さくなった母がいる
棺に花と最後の風を

棺には風は届かず煌めきを
増すは花だけ母は死顔

友同士語り広がる風聞は
母とは別の女の葬儀

母偲び涙なみだの葬儀終え
踵返してそれぞれの風

樫焼けば備長炭に母焼けば
風に舞う骨もろく崩れて

粉々に火葬の骨は崩れ散り
熱風に母は揉まれて消えた

風は止み湿地の闇は静まりて
白木位牌の母と二人で

野辺の風母の遺骨に生命なく
貨物列車で運ぶみたいに

涙から析出されぬ悲しみは
風に消えたか母の納骨

サルビアの風

母の死後知る本籍は二丁目で
僕が知らない風が吹く街

認印ひとつ押すごと母の死が
戸籍の底で風化していく

息吐けば風に舞うよにシャボン玉
母の面影浮かんで消えて

母憎む思いは確かあったけど
風よ帰ろう幼き日々へ

改めて母を偲べばまた風が
あの日この日の思い出乗せて

人生の要の時はいつだって
母がいたはず微風の中に

あの日々の風よみがえるアルバムは
子を中心に母が寄り添い

若き日の写真の中の母が母
老けた姿は風に燃やそう

遺影とは異なる画面若き日の
ママに駆け寄るサルビアの風

尺貫の時代に母が買ってきた
五文の靴で風を駆け抜け

音も秋風

さらさらと汗も涙も風の中
母が好んだソーメンタイム

このジャムは母の手作りあと少し
思い出ひとつまた風に消え

母偲び名店のカツ買い求め
ソースたっぷりかけても哀し

秋風に季節はずれの靴二足
母が遺した動かぬ物質

特にない母の遺品を漁る秋
古びたヤカン騒ぐ風鈴

形見分け清貧風に色あせた
税がかからぬ母の通帳

線香が母の残り香変えていく
柱時計の音も秋風

生前の母が育てた万年青らも
秋風のなか雑草となる

いつもとは異なる朝の風さわぐ
母亡き庭の草木は枯れて

取りに行く母亡き日々の朝刊は
読まれぬままに風雨に染まる

丑三つの風

死も風も平等なのに母の死は
自分ひとりが損した気分

亡き今は枯葉の風も追うように
われ呼ぶ母の声に聴こえて

砕かれた枯葉が風にあしらわれ
母を求めて追われるように

母偲ぶ涙が銅を腐蝕させ
あの風色が版画のように

つらい風北緯何度に舵とれば
あの世の母にたどりつけるか

妖怪の母でいいからあの世まで
会いに行こうか丑三つの風

冥府から母の誘いが来るを待つ
午前三時の窓打つ風雨

母の死後母に似てきて猿よりも
孔雀の前の風を楽しむ

寒風の一人の部屋で冷奴
昨年までは母と湯豆腐

母に似た人を求めて彷徨える
サイトの闇に生ぬるい風

ヒュと北風

風吹けば門扉はおろかドアノブも
音も凍てつく亡き母の家

声もなく母の位牌に隙間風
やがては売りに出される家で

生前の母を騙した諸々を
詫ぶ独り言こがらし吹けば

訳もなく当たり散らした反抗期
風にも涙母なき今は

積年の汚れを風に飛ばし掘る
母が遺した教えの化石

反戦は母が遺した道標
逆風のなか孫やひ孫は

風に聴く死後の世界の母は今
何を想いて何を哀しむ

風の墓母の快気を願掛けた
なんて嘘です知っていたから

墓参りあの世はどうか母に問う
答え聴こえずヒュと北風

死ぬときは母も一人で風哀し
慕われながら孤独みたいに