夢をもいちど

(ーー;)老いたこの身をやさしく抱いて
夢をもいちど見たいから

梅の香が冬の終りを告げると、開花にはまだ早い桜の枝先から春のオーラが出始める。この季節、僕は「梅は咲いたか」を唄う。唄うと言っても自己流だ。

梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳ャなよなよ風次第
山吹ャ浮気で色ばっかり
しょんがいな

柳橋から小舟で急がせ
舟はゆらゆら棹次第
舟から上って土堤八丁
吉原へ御案内

「舟から上って土堤八丁吉原へ御案内」と歌から語りに変わる、さわりの部分が心地よい。
柳橋から花街の面影が消えてしまったが、それでも欄干から川面を眺めていると、男と女の鼓動が聴こえてくるようで、色っぽかった往時が偲ばれる。男たちは浮き浮きとしながら柳橋から舟に乗り、舟からあがると逸る思いで土手八丁~約1キロ弱~を小走りに吉原を目指したのだろう。

吉原の灯りが消えたのは昭和33年3月31日。僕が6歳の時だから残念ながら廓を知らない。僕が見た吉原はすでにソープ街になっていた。

廓は苦界とも言われ、遊女たちの暗い歴史がある。花魁(おいらん)という字は「鼻の先かけ」とも読まれたように、性病も蔓延していた。
廓遊びをした夫から淋病をうつされ、それが原因で妻のほうが離縁されたという、今では考えられない酷い話も残されいる。この悲劇の妻、荻野吟子が性病治療の際、男の医師たちに恥部を覗かれるのが辛かった思いから湯島に「産婦人科荻野医院」を開業。34歳にして近代日本初の公許 女医となった。日本の歴史は面白い。

僕は廓噺が好きで、遊女たちの世界を美化している。二度とあってはならない世界なのだか、廓への憧れは僕から消えることはない。
欲望を処理するだけの射精産業とは異なり、遊郭には遊女たちの悲喜こもごもの生活そのものが閉じ込められていて、そこを訪れる男たちとともに様々な人間ドラマが熟成されていく。
快楽だけではなく、哀しみが伴うからこそ性愛に味わいが生まれてくる。哀しみを持った女たちからは母性が醸し出される。哀しみに包まれていた遊郭そのものが僕には母体のように思え、中で包まれて横たわりたくなるのだ。