官能作家的老後を目指して

(ー ー;)憎みたくなる貴方の浮気
だけど許すわ好きだから

(ー ー;)憎むよりかは哀しむほうが
好きな自分になれるから


「憎しみとは人間の愛の変じた一つの形式である。愛の反対は憎しみではない。愛の反対は愛しないことだ」と有島武郎は言う。

しかし愛が憎しみに変じた段階で愛とは全くの別物になっている。生卵とゆで卵とでは同じ卵であっても別物なのだ。ゆで卵を生卵に戻すことは不可能だから、未練たらたらと執着して憎悪感を深めていくのは愚かなことだ。もし愛が憎しみに変わる兆しが見えたら、とっとと別れて新たな愛を見つけたほうがいい。

「愛の反対は愛しないことだ」では小学レベルの回答で、文豪の言葉とは思えない。
愛の反対は無関心だという人もいるが僕は違うと思う。むしろ無関心という広大な土壌があるからこそ、個別の愛が育まれていくのだ。万人を愛することは不可能だし、無関心領域を狭めて愛を増やしていくと、それこそ憎しみも増え、争いが多くなるだけだ。
愛の反対、それは無関心ではなく、暴力だと僕は考えている。


「愛の表現は惜しみなく与えるだろう。 しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものだ」(有島武郎

僕は貧乏だし、ケチなので惜しみなく与えたいという感情にはなれない。また天性のものぐさで、女のために何かをしてあげようなどと思ったことがないし、惜しみなく奪いたいという気にもなれない。奪うという男の本能が僕から消えているのかもしれないが、あの時、「あっ、ダメ、やめて」なんて囁かれると、じゃやめようと、さっさと引き上げてしまい、女からきょとんとされてしまう。

男が奪い、女は与えるものだという思い込みがいまだに残っている。
「○○ちゃんがさ、やらせろってしつこく言うから、やらせてあげたんだ」などと女がぬかしていると、やれやれと思ってしまう。
セックスは一緒に楽しむものであり、やられたり、やらせてあげるものではなく、お互いにしたい時にすればいい。

僕にとっての恋愛世界は奪ったり与えたりの共同作業ではなく、極めて個的な取り組みになる。女から多大な刺激を受けながら、その刺激によって、いかに自分の世界を構築していくかを楽しんでいるだけなのだ。

短歌や都々逸を発表すると、いい人がいるんでしょう、とよく聞かれる。彼女がいないわけではないが、女がいたら短歌や都々逸などをつくったりはしない。それよりいちゃいちゃしながら飲んでいるほうがずっと楽しいではないか。
僕は女がそばにいると創作できないのだ。恋をしていても、現在進行中の恋をそのまま創作に乗せることはない。現実の恋となると、もっと生々しいものであり、短歌や都々逸にはならない。
不倫の渦中にいる女が実体験を元に生々しくブログに書いたり短歌にしているのを読むと僕は辟易してしまう。

官能作家の実生活は官能的ではないという説がある。日々、官能世界に溺れてしまえば、創作するより、やっているほうが楽しくなり、書く時間がなくなるはずだというのだ。

僕は老後、官能作家的に生きてみようと思っている。