勘を鍛える

勘を鍛える

「もう一杯飲むか飲まぬか寒・勘・燗」牧童

勘がいい奴と悪い奴がいる。勘がいいか悪いかによって人生変わってしまうはずだ。
残念ながら僕は勘がすこぶる悪い。例えば初デートの時、注文した料理をひつこく勧める。どうも様子が変だから問いかけると、見るだけで吐き気がするくらい嫌いな料理だったりする。勘で彼女が大好きな品をオーダーしていたら、今頃いい仲になっていたはずだ。

毎日、エレベーターに乗る。四基ある。僕は勘を鍛練するため、次に来そうな一基の前に立つ。四分の一の確率なのに当たったことがなく、いつも落胆している。

酒をもう一杯飲んだほうが幸せになれるか、それとも不幸になるのか勘を働かす。勘ははずれ、いつも不幸な二日酔いがやってくる。

現代人は勘が悪くても生きていける。しかし生命体は本来、勘が悪いと生きてはいけない。餌はどこにあるのか、毒か栄養か、敵か味方か、勝つか負けるか……勘で見極めないと生きてはいけない。

テストの山勘、〇か×かの勘を磨くことは悪いことじゃない。本来、教育とは生きていくための勘を養うものなのに、現代教育はむしろ勘を鈍らす訓練を行っている。

勘は天性だけのものではなく、経験によっても創られていく。経験に裏付けされた勘がものをいう。勘が当たる確率を高めるには経験が必要であり、だから部族の長老たちには特等席が設けられるのだ。
「若者たちよ、そうさな、今日のような天気の日はな、新宿ではなく池袋の山に登るといい。そこに美味い女がいるはずだ。それを連れてこい!」
長老の勘によって若者たちも美味しい餌にありつける。腕力を失っても経験による長老たちの勘は若者たちには負けはしないのだ。

経験的勘が働かない老人は生き場所を失う。老後をどうしたら楽しく過ごせるのか、癌になったらどう対処すればいいのか、どうしたら自分らしい死に様が見えてくるのか、勘を働かすしかない。

さて、今度の恋はうまくいきそうな気がするのだが、さてさて、今夜の酒は美味くて身体に良さそうな気がするのだが、さてさてさて僕の勘は当たるのだろうか。