もっと都々逸を

和歌は雅よ俳句は味よ 
わけて俚謡は心意気 
作:黒岩涙香

都々逸は歌詞から受ける印象によって「情歌」ともいう。
江戸末期から明治にかけて愛唱された歌で、七七七五の26文字でさえあれば、どのような節回しで歌ってもよかった。現今のものは初世都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)の曲調が標準になっていると伝わっている。
江戸で歌い出されたのは1790年代(寛政期)のことで、「逢(あ)うてまもなく早や東雲(しののめ)を、憎くやからすが告げ渡る」などが残っている。
人情の機微を歌ったものが多いが、最盛期に入る1850年代(安政期)以降は、さまざまな趣向が凝らされ、東海道五十三次や年中行事、あるいは江戸名所といったテーマ別の歌も現れてくる。 
1870年代(明治期)になると、硬軟の二傾向が明確になる。文明開化を例にとると、「ジャンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」「文明開化で規則が変わる、変わらないのは恋の道」などである。
このうち、硬派の路線が自由民権運動と結び付き、思想の浸透に一役買っている。高知の安岡道太郎は「よしや憂き目のあらびや海も、わたしゃ自由を喜望峰」といった歌をつくり、『よしや武士』と題する小冊子にし、立志社の活動に用いられた。

1904年(明治37)、黒岩涙香(くろいわるいこう)は歌詞の質を高めようと、「俚謡正調」(りようせいちょう)の運動を提唱した。おりから旅順攻撃の真っ最中で、涙香が経営する『萬朝報』(よろずちょうほう)に発表された第一作は、「戟(ほこ)を枕に露営の夢を、心ないぞや玉あられ」であったが、都々逸の衰退とともに、この運動も30年代(昭和初期)に消滅した。

こんな都々逸ではあるのだが、僕は都々逸が好きだし、もっと多くの人々が、その人らしい都々逸を唄い、楽しんでもらいたいものだ。