都々逸談話・「今回だけよ」
(ーー;)今度ばかりは許せぬけれど
今度だけよと身を許す
この都々逸に対し《今度が二度出てきますが、これで良いのかしら??「今回だけよ」の方がいいのでは?》との指摘を受けた。
他人の作品を、自分ならこうするだろうと思案しながら添削することは、推敲と同様、良い修行になる。
さてさて、では「今度」と「今回」、どちらがいいのだろうか?
どれを選ぶのかに正解はなく、それぞれが好きなほうを良しとすればいい。
では僕の考えを書いておく。
(ーー;)今度ばかりは許せぬけれど
今回だけよと身を許す
(ーー;)今度ばかりは許せぬけれど
今回だけよと身を許す
と一方だけを「今回」になおすと、3節の頭にくる「今回」が4文字になってしまう。都々逸の基本ルールに、第1節と3節の頭の文字は、文字数を3または4文字のいずれかで統一させる、というのがある。
この基本ルールに従うのなら、「今回」ではなく、たとえば「今夜」になる。
(ーー;)今度ばかりは許せぬけれど
今夜だけよと身を許す
(ーー;)今度ばかりは許せぬけれど
今夜だけよと身を許す
短歌は日常会話とは別の言語を用いながら創作するのに対し、都々逸は話し言葉を唄にしていくことを重視している。だから都々逸では難しい漢語的表現を避け、平仮名での表現を良しとしている。たとえば厳冬とはせず、さむさきびしい冬、となる。
「今回こんかい」と「今度こんど」のどちらが話し言葉になるのかは微妙だが、僕は「今度」のほうが日常会話としてすんなり入ってくる。「今日こんにち」より、「今日きょう」のほうが僕の日常会話の言葉になる。
定型詩には文字数の制限があるから、同じ言葉を繰り返すのは無駄だ、という考え方があるが、都々逸では繰り返すのも悪くはないとされている。
「嫌よ嫌よも好きのうち」「好きよ好き好き好きだから」
都々逸では日常会話の言葉を唄にしていくわけだが、日常会話では同じ言葉が繰り返されることが多い。さっき「今度」と言ったから、次は「今回」と言おうなどと考える人はまずいないだろう。そして一人が使う日常会話の語彙はそんなに多くはない。
他人の都々逸の解釈も、それぞれがそれぞれの解釈をすればいいのだが、野暮ではあるが、自分の都々逸を説明してしまおう。
(ーー;)今度ばかりは許せぬけれど
今度だけよと身を許す
同じ「今度」でも、1節と2節の「今度」は意味合いが異なる。